西洋では、学校の校内に教会があるのを見かけるが、東洋いおいても同様で、わが国でも
江戸時代の学門所には学問の神様として独立した孔子廟が設けられ、財政基盤のない小藩の
学校においても、講堂に孔子像や画像が掲げられるのが常であった。
多久は藩よりも、もっと小さい邑であるにも関わらず、大藩と同等の独立した孔子廟を他
藩に先駆けて建立した。
貞享三年(1686)邑主茂文は、聖廟建設を大藩に請い、孔子像及び顔子、曽子、子思子、
孟子の四哲像を中国より取り寄せるが許可がおりずに東原庠舎に安置する。そして元禄13年
(1700)幕府、本藩の許可がやっと下り、儒学者、武富咸亮を相談役に、東原庠舎教授、川浪自
安、助教授鶴田省庵が設計にあたる。建設は宝永2年(1705)に始められ宝永5年(1708)
落成。恭安殿とよばれる。
廟の高さは12.6メートル、横16.2メートルの妻入建築で、屋根は入り母屋造、瓦葺である。
本堂の天井には、邑の絵師御厨夏園によって見事な蟠龍が描かれている。正面の奥陣には、
重要文化財に指定されている本瓦板葺の聖龕と呼ばれる八角厨子が置かれ、内部に高さ81セン
チメートル「元禄13年5月鋳成」の銘を背にもつ青銅製の孔子倚坐像が安置されている。
多久孔子廟恭安殿の前に立つと、創建にあたり古代中国の思想を取り入れるために苦心した
多久の先人たちの熱い思いが時空を越えて伝わってくる思いがする。建物は和中折衷であるが至る
所に中国の様式をかいまみることができる。
聖廟入口の仰高門は、孔子様の人物評を訪ねられた弟子の顔回が「先生は仰げば仰ぐほど高さ
をまし、のぼりつく手段がない。
それほどすばらしい人です」と答えたことから、孔子様の廟前の門には、孔子様を表す仰高の文字
が掲げられるようになっている。
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